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​【アパレルメーカー→ 旅行会社→ カラオケ制作部→ 旅行会社→ 海外挙式現地手配会社→ フリーランスとして独立し海外挙式現地手配→ ヨガティーチャー→ カフェ経営→ こんまり®流片づけコンサルタント】

 

番外編自己紹介。どんな人だろう? と興味を持っていただいた方へ。

長編、ライフストーリー にて自己開示をしてみました。

 

長文です、、お時間のある方のみご覧ください。


【誕生】


1964年2月東京生まれ。大阪出身の両親の元、日曜日の雪の日に長女として産まれる。

世田谷の社宅でたくさんの子供と一緒に一日中外で遊びながら育つ。

木登りが得意で見た目がほぼ男の子。2歳でアトピー発症。ボケーとした子供だったのであまり記憶はない。

【幼いころ】

5歳。父が商社から外資の会社へ転職したため、社宅を出て家を購入、府中市に引越す。

小学校では大きな声を出したことがなく、国語の朗読では声が教壇に届かないため、先生がわざわざ横に立って聞いてくれるほど。朝礼の途中からは保健室の常連。習い事は茶道のみに興味を示す。

水泳、跳び箱の体育の授業だけが自分への自信となっていたが、それ以外はオール3の成績が続く。

両親が家を立て替えたため2km先の同市のアメリカンスクールの横に引越し、初めて自分の部屋を持つ。

毎年の大阪帰省で、従姉妹たちの言葉の違いや食べ物の違いが楽しくて、違う土地に興味を持つ。

父がドイツ出張で買ってくるお土産は母と妹 私の毎回の楽しみになり、かわいい小物たちが家の壁をどんどん賑やかに飾られていく様子に心踊らす。小学校の図書館で「岩波世界児童名作集」を読破し、外国に憧れる。

 

 

 

【10代】


おとなしすぎる私を心配し、両親が中学受験を進めるが失敗。地元の中学にすすみ、都会からの転校生と仲良くなり、外交的な彼女の影響で初めて放送委員に立候補。マイクの前で話せることから自信をつけ、性格を脱皮! 

自分を変える事って可能なのだと14歳のときに気づき、大きな転機となる。

初めての仕事はアメリカ人の赤ちゃんのベビーシッター。生活様式の違いに愕然とする。
 

高校生活は仲良しの友人4人と同じ都立高校へ進学、そのまま一緒に袴をはいてみたいため、に合気道部に入部。

ひたすらミーハー女子を楽しみ、3年間放送委員のためすべての学校行事に積極的に参加。

女子サッカー部も兼任していたので、毎年全国高校生サッカー大会の手伝いでお正月から国立競技場で働く。

ファミレスのバイトで接客業の初歩を習い、夏休みには軽井沢で住み込みの社員保養所で働き、勉強より仕事の方が私には向いていると自覚。

高校2年生の夏休みに合気道部の合宿をサボり、母と妹 私の3人でベビーシッターしていた家族に会いにアメリカに行く。まったく英語の出来ない3人で数々の笑い話を生み出した 冒険旅行はその後の人生に大きく影響を与える。

アクティブな反面オタクな漫画好き。マーガレット、McSister's, anan に洗脳され、50'sのロックンロールファッションに憧れる。アトピーのため、化粧が出来ないのでファッションへとのめり込む。

推薦で進学できそうな短大見学の際に、となりの専門学校の生徒たちの奇抜なファッションが刺激的であまりに楽しそうだったので、文化服装学園ファッションビジネス課に進路変更。モノを飾るディスプレイの授業がだけ真剣。

また、両親に2年後の成人式の振袖の代わりに旅行代金を援助、という交渉が成功し、パリ、ロンドンの蚤の市を巡る旅をする。


【20代】


アパレルメーカー(サンエーインターナショナル)に就職。

渋谷西武→新宿丸井ヤング館→渋谷道玄坂の直営店 店長になる。

デザイナーブランドが大人気のバブル時代だったので、前年対比200%以上売上が続きショップを改装してもらう。

早生まれだったので、人より一年損してる?と勝手に思い、一年ぐらい外国で暮らしてみたいと考え始める。

ワーキングホリデー制度を知り。両親を半年かけて説得。高校時代英語が毎回追試だったことを思い出し、あせって仕事後に英会話学校に通い、ウォークマンでFEN(米軍放送) を聴き続ける。

社販で購入したたくさんの洋服を片づけ、スーツケース一つで22歳でオーストラリアへ渡豪。

オーストラリアについた初日、空港からタクシーの中、目新しい景色を見ながら、「こんなところでお家をもって暮らしてみたい。」と強く願う。

憧れの海のそばでの暮らしを叶えるべく、ゴールドコーストへ。 知り合い0人、持ち物最小限、英語も最小限の怖いものしらずの挑戦の日々。日本からの観光ブームが始まったタイミングでもあり、運よくツアーガイドの仕事につく。オーストラリアをバイク、電車、バス、飛行機、ヒッチハイクとすべての交通手段を試しながら一周する。

日本で貯めたお金はすぐに定期預金に入れていたので、そのお金でヨーロッパ8カ国も巡る。

お天気の良さ、オーストラリア人の優しいオープンな人柄に惚れ込みオーストラリア移住への夢が膨らむ。

しかし、ワーキングホリデービザが切れ泣きながら帰国。

日本帰国後は第一興商の制作部にアメリカ向けのカラオケ制作の担当として入社。

過去30年間のビルボードの統計、選曲、英文テロップ作り、映像発注の仕事を担当。

音楽関係の個性的な人々と出会う。会社が新しい自社ビルへ移転が決まり、移転プロジェクトのチームへも参加。

朝日新聞の求人でオーストラリアの旅行会社の仕事を見つけ、オーストラリア移住への夢のために応募。

「人と出会うことが趣味」と書いた履歴書のおかげで合格。ビジネスビザを取得して再渡豪を叶える!

シドニーにてThomas Cook 旅行会社でツアーガイドとして4年間働き、日本からのスタッフ採用、教育などもを担当。しかし無理をして、疲れがたまるとアトピーやアレルギー性の結膜浮腫などアレルギー症状に悩まされ、、チャイナタウンの漢方、鍼灸治療先生の元に通い始める。お互いの英語は怪しいが顔を見るとホッとする中国人の先生のとその後15年以上付き合いとなる。気の流れの大切さや風水を教えてもらう。

26歳で結婚、そのまま永住権を獲得すべき奮闘。

旅行会社との契約満期が近づき仕事を探す中、出会った南アフリカ人の社長にビジネスビザをサポートを条件に海外挙式会社へ転職。ナショナルマーケティングマネージャーとして4年間働く。

ここでも自社オフィース(以前は教会)の物件への移転が決まり、ブライダルセンターのディスプレイの仕事も任される。

1年働くと24日間の有給休暇がもらえるというオーストラリアの素晴らしい制度のおかげで、「ホリデーのために働く」という考えになり、世界各国へ旅を続ける。一番印象深く心に残る旅はエジプトからはイスラエルへの旅。

【30代】

30歳の誕生日に旦那から「好きな人がいる」との衝撃の告白。人生で最大級に落ち込み、目が覚めると泣く、結婚式のカップルを見送ってまた泣くという日々が続く。これまでの調子にのっていた人生を振り返り深く内観、立ち止まることをやめ、進む決心をして、32歳で離婚。

「なんのためにオーストラリアで働いているのだろう?」と、意味がわからなくなり、生きがいのために小さなアパートを購入。一人暮らしで自分が出来ることはなんだろう? ともう一度確認しながらアパートを改装。

改装のペンキ塗りをきっかけに現在の旦那と出会う。

付き合って2週間後に交通事故、入院。その1ヶ月後に 元旦那の交通事故、入院。続けざまの病院での看病をしながら、はじめて命の尊さや人生の大切さに気がつく。

現在の旦那と結婚。それを期に仕事を辞め、アパートを買い替えて一軒家に引っ越し。

のんびりとバイトで過ごすなか、たまたま学生時代からの友人の紹介で海外挙式の仕事をフリーランスで始めることに。自分で企画運営できることの楽しさ、お客様に喜んでもらえる仕事が好きなのだと改めて感じる。

35歳で妊娠、病院の先生に年齢に丸をつけられ、高齢出産になるのだと気づく。

一人娘を授る。産まれて初めての娘の顔には毛筆で「命」という漢字が浮かんで見えた。

教会での結婚式の仕事中は娘はベビーシッターと待機してもらい、挙式が終わるとすぐ授乳。

初めての育児と仕事の両立、自分のキャパシティーに戸惑いながら過ごす。

旦那は日本のTVコマーシャル撮影撮影という仕事がら、砂漠に1ヶ月や2日後にアメリカヘなど急な出張続き一人での子育て時間が多くかなると疲れがたまり、首が傾いたまま2か月。カイロなどの治療ではその時は治るが、根本的には人任せでは良くならないと気づき、本格的にヨガでのセルフメンテナンスに励む。

安全のためバルコニー、使いやすいキッチンと生活の変化に合わせての模様替えと改装が趣味となりオーストラリアのインテリア雑誌を読みあさる。

【40代】

両親が日本人なので 家の中では日本語で過ごしていた娘にとって 学校は新しい挑戦。日本語の友達の間では番長。英語の友達の間ではおとなしすぎる娘のために 学校選びに悩む。そんな中シュタイナー教育に出会う。 言葉や指示でなく、「毎日の生活のルーティーンの中で子供の期が熟すのを待つ」という早期教育と真逆の教育に感銘を受け、、即決!

 

また、家の中にあるプラスティックのおもちゃの色が目に痛いな、と感じていた私にとってシュタイナーのおもちゃや教材は自然素材で心落ち着き、モノが与える人の心への影響を感じる。

小さいうちは歩いて学校に通わせたいと思い、家を売却、学校のそばに家を借りる。学校の近くに住むことで初めてコミュニティーの中に自分がいると感じ、クラスペアレンツ(PTA)、日本語やクラフトのクラスでのボランティア活動を通し、私も一緒にシュタイナー思想を学ぶ。

オーストラリア人のお母さん達の個人としての自立に刺激され、ヨガティーチャーの資格習得。ここから16年間ヨガを教える事になり、ライフワークとなる。この頃にはアトピーやアレルギーの症状もすっかり忘れるように。

リーマンショックの影響でこれまで多忙であった旦那の仕事が激減。

家を売ったお金を食べ尽くしてはいけないと、娘がバスで一人で学校に通える地域に家を購入。

父のが危篤のため家族で帰国中、妹家族と一緒に東北大震災を東京で経験。計画停電の中、父を送る。

一度はやってみたかったカフェ経営に主人と挑む。カフェの内装デザイン、得意のペンキ塗りなどできるところは自分たちで始め、「居心地の良い隠れ家カフェ」を目指す。

ローカルのお客様との繋がり、ワーキングホリデーの若者と一緒に働く楽しさ、卒業後も娘の通った学校へランチの配達などを通し色々な年代や人種の人々とのコミュニケーションを楽しみながら8年間カフェ経営を続ける。

【50代】

8050問題ど真ん中、一人暮らしの母の入院、手術、引っ越しのため、日本への帰国を繰り返す。

そんな時、何気なく空港で買ったのが、​人生がときめく片付けの魔法」近藤麻理恵著 河出書房新社 刊​

こんまり®︎流片づけは、東京の実家の片づけから始まる。

こんまり®︎メソッドにそって母と一緒に「ときめく」ものだけを選びきり東京の実家を片づけ終了。

過去に方をつけ、とても清々しく、次のステージに向かう母の力強く美しく力強い姿に「片付けには人を変える力がある」と実感する。​

 

その後実家は民泊として生まれ変わる。オリンピック延期、コロナの中でもマンスリーでの賃貸などで予約は埋まり、現在もAirbnbで運営中。

母の変化に驚きながら、モノに向き合うことは自分自身と向き合うことと確信。 

毎日メガネと鍵を探しつづけ、いつかリメイクするためにと溜め込んだモノたち、パッと見はヨガクラスを行うので綺麗な家だが、家族だけが知っている、引き出しとガレージの中のカオス、、そんな暮らしを見直す事に。

 

3ヶ月で、すべての自分の家を片づけ、晴れてコンサルタント養成講座を受講。ときめく仲間に出会う。

その後モニターレッスンを続ける、ヒアリングの段階で離婚直後で涙を流したオーストラリア人のお客様が、片づけを終えた頃には晴れやかな表情が変わっていくのを目の当たりにし、帰りの車の中で自分も泣き、「これを仕事にしたい」と強く願うようになる。

その後、認定試験を受け、シドニー初の日本人こんまり®︎流コンサルタントとしての仕事を始める。


【今後は】

JOY を届けるハミングバードの教え「人生はお楽しみでいっぱいの美しさで溢れている。」という心持ちので、軽やかで、心地よい暮らしをモットーに! 

 

出会う人に寄り添いながら心とからだ、生活空間」を整えるためのヨガレッスン、片づけレッスンで、行動力が湧いたり、おしゃれを楽しんだり、家での時間や家族との時間を楽しんだり、、etc。 

これからのあなたを応援する人でありたいと思っています。

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